「坂の上の雲ミュージアム」周辺まち歩きのご案内
ときは明治。当時、松山にも新時代を切り開こうと明るくひたむきに努力した人々がいました。司馬遼太郎作 小説『坂の上の雲』は正岡子規、秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟の三人の人生をたどりながら「近代国家」の仲間入りをしようとした明治の日本を描いています。明治の時代に想いを馳せながら松山の街を歩きます。
★ボランティアガイドがお客様のご都合に合わせて、坂の上の雲ミュージアム周辺をご案内いたします。
【ご利用方法】
坂の上の雲ミュージアム2階ロビー内に、松山観光ボランティアガイドの待機場所があります。
★ご予約は10日前までにお願いします(お一人様からでも歓迎です)。
当日の申し込みについては、直接ガイドに話してください。可能な限り対応させていただきます。
【ガイド時間】
(1)萬翠荘と子規・漱石ゆかりの地めぐり
◆平日 土日祝 午前・午後 (ミュージアム休館日・年末年始はガイド休止)
9:30 ~ 12:30
13:00~ 16:00
※当面の間、愛媛県庁と城山公園めぐりのご案内をお休させていただきます。
(2)愛媛県庁と城山公園(二ノ丸・三之丸跡)めぐり
◆土日祝のみ 午前・午後
午前 9:30 ~ 12:30
午後 13:00 ~ 16:00
■ 定時出発ガイドを行っております。(ミュージアム休館日・年末年始はガイド休止)
子規・漱石ゆかりの地めぐり 《毎日》 10:30 14:00
愛媛県庁と城山公園めぐり 《土・日・祝日のみ》 10:30 14:00
上記時間に出発します。遅れないようにおいでください。
集まっていただいたお客様をご案内しますので、
複数のグループの方をご案内する場合も予想されます。ご了承ください。
基本的なご案内
1.萬翠荘と子規・漱石ゆかりの地めぐり《60分》 (萬翠荘2階を含むと90分)
明治28年松山中学の英語教師として赴任してきた夏目漱石と帝国大学で同級生で従軍記者として赴き、病の回復のため松山に帰ってきて、52日間漱石と同居します。二人の松山での生活の様子などを辿りながら、まち歩きをします。
坂の上の雲ミュージアム⇒ (1)愛松亭跡碑 ⇒ (2)萬翠荘 ⇒ (3)城山公園 ⇒ (4)松山中学校跡 ⇒ (5)松風会発祥の地 ⇒ (6)城戸屋旅館跡 ⇒ (7)愚陀仏庵跡
(1)愛松亭跡碑(夏目漱石が最初に下宿をしたところ)
夏目漱石が明治28年4月に、松山中学の英語教師として赴任してきたとき、最初に城戸屋旅館に逗留し、その後、城山下の「愛松亭」に移り、ここにしばらく下宿しました。その後に、二番町の上野義方邸の離れ(愚陀佛庵)に移りました。
(2)萬翠荘(ばんすいそう)
「萬翠荘」は、大正11年に旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨(さだこと)によって、久松家の別邸として建てられたフランス風の建物で、当時は皇族の方が来県された時の迎賓館として使用されていました。(入館料 300円)
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(3)城山公園(東ノ門跡付近)
松山城における藩主の居宅は、二之丸と三之丸にありました。現在、城山公園の三之丸・東ノ門付近から、復元された二之丸史跡庭園の城郭部分、及び、公園として整備中の三之丸跡が一望できます。
(4)松山中学校跡
現在のNTT愛媛支店のビルの前に、正岡子規や秋山真之が学び、夏目漱石が教鞭を執った「松山中学跡」の碑が建っています。
(5)松山松風会発祥の地
現在、松山市立番町小学校がある場所に、明治の学制改革により松山市立高等小学校が創設されました。明治27年に、同校の校長・中村愛松、教員・野間叟柳らによって地方初の日本派(子規派)俳句結社「松風会」が発足しました。
(6)城戸屋旅館跡
「城戸屋旅館」は明治28年に夏目漱石が松山中学に赴任して来たときに、最初に泊まった旅館です。その後、漱石は、城山下の愛松亭、そして二番町の愚陀佛庵へと移りました。
(7)愚陀佛庵(ぐたぶつあん)跡
夏目漱石と正岡子規が、明治28年に52日間同居生活を送った下宿、上野義方邸の離れ「愚陀佛庵」は、松山市の中心街にありました。ここへ松風会のメンバーの句会が日夜開かれ、漱石もその中に加わり、その後の文筆家の礎となりました。
2. 愛媛県庁と城山公園(二之丸・三之丸跡)めぐり《90分》
城山公園は、江戸時代に造られた松山城の二之丸・三之丸があったところで、明治維新後は、松山藩庁・愛媛県庁などが置かれ、その後、兵舎も設置されました。現在の愛媛県庁・二之丸跡・三之丸跡をめぐり、愛媛の歴史をたどってみませんか。
坂の上の雲ミュージアム ⇒ (1)愛媛県庁 ⇒ (2)三之丸・東出入口付近 ⇒ (3)馬頭観音 ⇒ (4)三之丸・南出入口付近 ⇒ (5)歩兵22連隊跡碑 ⇒ (6) 初代県庁跡 ⇒ (7)黒門跡・栂門跡・槻門跡 ⇒ (8)二之丸史跡庭園 ⇒(9)二之丸多門櫓前広場
(1)愛媛県庁
愛媛県県庁は明治6年に誕生。現在の庁舎は、昭和4年に建てられた4代目で、左右対称型の純西洋建築物です。現役県庁として使われている建物としては、3番目に古いものです。
(2)三之丸・東出入口付近
藩政時代には、三之丸(堀之内)の東門がありましたが、明治6年の廃城令により壊されました。明治19年に堀之内に松山歩兵第22連隊が設置され、兵士たちはこの東出入り口を出て城北練兵場(明治22年設置)まで、ラッパを鳴らし、連隊歌を痛いながら進行していきました。
(3)馬頭観音像
馬頭観音像は、戦地で死んだ多くの軍馬の慰霊のために建てられたものと思われます。なお、この近くに連隊の厩舎があったと伝えられています。
(4)三之丸南出入口付近
現在の南と西の出入口は、明治6年に土塁を切り取って造られたものです。入口には22連隊の正門がありました。そのときの門柱・歩哨舎と近くにあった忠魂社が現在も、城北の愛媛県護国神社の境内に保存されています。
(5)歩兵第22連隊跡碑
歩兵22連隊の駐屯は、明治17年松山発足、昭和13年の満州出兵で最後となりました。
22連隊旗手として、旅順総攻撃に参加した桜井忠温は、戦死者として死体の中に入れられていたのを危うく助けられ、病院で療養中に書いた戦記小説『肉弾』が大反響を呼び世界15か国に翻訳されました。
(6)初代県庁跡
明治2年、松山藩庁が三之丸に置かれました。同4年の廃藩置県で松山県庁となりましたが、同5年、火災で焼失したため、二之丸に移転しました。しかし、同年火災で焼失したため、県庁を大林寺に仮移転。明治6年、愛媛県の誕生に伴い、三之丸の御用米蔵跡に初代県庁舎が建てられました。
(7)黒門跡・栂門跡・槻門跡
松山城の正門である黒門と栂門・槻門は、いずれも二之丸防衛のための重要な砦ででしたが、明治6年の廃城令により取り壊されました。槻門の北側には、松山城で最も高い20.5mの石垣があり、その上に西大砲台があります。
日露戦争の時、衛戌病院がここにあり、最近、傷病兵のロシア軍人と日本人看護婦の名前が刻まれた「ロシア10ルーブル金貨」が大井戸から発掘され「誓いのコイン」に思いを馳せる「恋人の聖地」となっています。
(9)二之丸多聞櫓前広場
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第3部の撮影がここで行われました。秋山好古が晩年、校長を務めた北予中学は現在の松山北高校の前身で、エキストラとして北高校の生徒30人が参加しました。ロケは、阿部寛さん演じる好古が、校長として生徒と一緒に登校しているシーンが撮影されました。
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